白の呪文


 息を吐くたび、瞬時に白く色づいた気体は頼りなく揺れて消えていく。
 一瞬の幻は、次から次へと浮かんでは消えていく。
 試しにすっと鋭く吐くと、キセルの形にたなびいて流れたのが古い映画の一場面みたいで、口の端が持ち上がる。
 音のない世界での儚さを愛おしむような遊びは胸が詰まるほど幸せで、いま、こうしていられるのが夢じゃないかと疑うほど平和だ。
 静かな遊びに思いのほか夢中になって、肺を突き刺すほどの寒さすら不快じゃなかった。
 白く目に見えなければ、寒いという事すら忘れてしまいそうだった。
 だって……、胸の奥はこんなにも温かいから。
 それに、背中も。
 視線だけそっと後ろにめぐらせると、もう一つ、白く立ち昇る息とその主がいる。
 それだけでトクンと心臓が跳ねて、また寒さがどこかにいってしまった。
 単純だなぁと自分を笑うと、真珠の首飾りのような呼気が夜空に溶ける。
 子供の頃、たしかに似たようなことをしたと記憶を辿れば、まだなにも知らない私が一生懸命シャボン玉を吹いている光景が、幻想の中ぼんやりと蘇ってきた。
 あの頃──幼かった私は、吹いても吹いても消えていってしまうシャボン玉を、どうにかして留めたいと夢中になって追いかけていたけれど、今ならその無意味さも不毛さも分かるから。
 焦る気持ちなんてなくて、ただ静かに息を吐き続ける。
 ふわふわと立ちのぼる霞は、そのものが生きている証だから。
 私は、私たちは生きているから。
 あの頃みたいに、消えてしまうものを追いかける必要なんてないもの。
「……先輩」
「んー」
 そっと声をかけると、私を通り越した白がふわりと空に吸い込まれていった。
「静かですね」
「そうだな」
 静寂を侵してはいけないと誰に言われたわけでもないのに、二人とも言葉少なにそれぞれの眼前を見つめ、しんしんと降り積もる雪の中でお互いの温もりだけを頼りにする。
 ジングルベルの音も聖夜にはしゃぐ喧騒も、イルミネーションもなにもかも、人の手が創り出したものはないクリスマスだけど。
 見えている景色は違うかもしれないけど。
 この村に来なければ知ることのなかった世界と、ここで生きることを決めなければ失っていたかもしれない温もりがある。
 背中合わせの存在が嬉しくて大切で、生きている、それだけがなによりのプレゼントだから、私は十分幸せだと思う。
 言葉にしたら白く消えていってしまいそうだから、背中から伝わるといいんだけど……。
 少し意識して背中を預けると、また一つ白が吸い込まれていって真後ろの先輩が口を開いたのかと……けれど、続くはずの言葉がなくて不思議に思うと同時に、背中から温もりが離れた。
「先輩?」
 それだけで迷子になった子供みたいに泣きたくなるなんて、おかしいかな。
「真弘先輩?」
 滑稽なくらい不安が滲む声で名を呼ぶと、いつもより少しトーンの低い、私の大好きな落ち着いた声が耳元でした。
「安心しろ、どこにも行きやしねぇよ。……寒いだろ」
「ううん、そんなには」
「バーカ、こういう時は嘘でも寒いって言っとけ」
 それがどういう意味なのかは、聞かなくても分かった。
「こうしときゃ、少しはマシだろ」
「……はい」
 背後から包み込むように抱きしめられて、頬がぽっと熱く灯る。
 うるさいくらい高鳴る鼓動が重なって、このままこうしていたら私たちの周りだけ雪が溶けてしまうんじゃないかって、あり得ないことを真剣に考えてしまう。
 普段は手をつなぐことすら躊躇う先輩なのに、不意打ちでこういうことをされると勝手が違って心臓がバクバクと暴れる。
「風邪ひかせたくねぇから、我慢しろ」
「我慢なんて……。大丈夫ですよ、私、体力には自信あるんですから」
「なにがあったって死にそうにねぇもんなぁ珠紀は……って」
 腰に回された手をつねる。
 死にそうにないというのが真弘先輩なりの褒め言葉で、どんなに大事な意味があるか分かっている。
 分かっていても、女の子としては面白くないじゃない。
 言い出したのは自分だけど、なんだか可愛らしくない響きより、もうちょっと言い方ってものがあったって……。
「おまえ……」
 拗ねだした気分が、続く真弘先輩の声と手であっさりと吹き飛んだ。
「こんなに冷えてんじゃねぇか」
 つねったまま置いていた手を上から守るよう握られて、無言の優しさにじわりと何かが胸の中を過ぎる。
 口が悪くて、態度が大きくて、いつも騒動の中心にいる人、でも……いざという時は誰よりも頼りになる人、それが真弘先輩で私が好きになった人。
 本心を見せるくらいなら、ただ黙って押し殺して、代わりにさりげない気遣いをしてくれる人。
 今だって私の体を気遣ってくれて、きっと心配でたまらないはずなのに、それでも家の中に入ろうと言い出さないでくれたのは、私の気持ちを察してくれているからなんでしょう?
 くっついた頬はおろか耳をくすぐる髪さえも冷え切っているのに、嬉しくて体の奥から温かくて柔らかい感情が沸いてくる。
 私が住んでいた街は雪こそ降るものの積もることはなく、みぞれになって溶けてしまうのが当たり前だったから、どこまでも白く塗りつぶすよう降りしきる雪景色が貴重で、それを誰よりも大切な真弘先輩と見ていられるのが幸せだって、黙っていても伝わっているんでしょう?
 そういう人だもの。
 一緒に過ごした時間はまだまだ少ないけれど、確信を持って言い切れるくらいは理解できている。
 それが、嬉しい。
「先輩」
「ん?」
 時間を巻き戻したかのようなやり取りをしてから、首筋の力をすっと抜いた。
 こつんと頭がくっつく。
 視界の端に、先輩の髪の毛と自分の髪が混ざり合って、境界がなくなっているのを捉えながら純粋に感じた言葉に口をまかせる。
「私、こんなに幸せなクリスマスを過ごせるなんて、思ってませんでした」
 誰とどこで、か。
 それよりも、過去形だってこと、分かってください。
「去年はこんなふうに過ごせるなんて、想像もしていなかった。真弘先輩と出会う前のクリスマスが、どうだったか忘れそう」
 話すたびに白い連珠が同じ方向へと浮かんでいく、それだけで幸せなんですよ?
「……後悔、しないか」
 回された腕にぎゅっと力が篭った。
 肩に乗せられた先輩の吐く息が視界を埋めて、その中にいろんな光景が一瞬ずつ浮かんでは消えた。
 出会ってから、いろんなことがありましたね、先輩。
 辛くて悲しくて何故と自問しても答えのない出来事と、日々を重ねるうちにかけがえのない存在になっていった皆と、真弘先輩。
 全部ここにあるのに。
「ここは……」
 そういう真弘先輩が後悔という言葉を使ったことを悔やんでいるかのように、束の間ためらいがちに言いよどんでから、がらりと表情を変えた声音が耳に注がれる。
「なんもねぇ村だからな。見ろ、クリスマスだってのに村中こもって静かなもんだぜ」
「それがいいんじゃないですか」
 小さく笑ってから言い切った。
 変わりない日常を慈しめるのは、もうあんな思いをしなくて済むという確信と、もう絶対にこの手は離れないという安堵があればこそ、だから。
 いつもより少し豪華な夕食と美鶴ちゃん特製のケーキを楽しんだ以外は、どうということはない代わり映えのしない平日でも、真弘先輩と一緒に過ごせるだけでいい。
「私は、それがいいんです」
「……そうか」
 後片付けし終わったら目を向けた庭が白く染まっているのに気がついて、縁側にぼんやりと座り込んでいた私に、前にもこんな事があったなって笑いながら背中を合わせてくれた先輩。
 その途中でどんなことが起こったのか、全てをあるがままに受け入れ納得し、気持ちの整理ができていると教えてくれた笑顔にどんなに幸せになったか。
 クリスマスプレゼント代わりに、このまましばらく一緒に居て欲しいというワガママも無言で受け入れてくれる、優しい先輩。
 好きなんて言葉じゃ言い表せられない気持ちで、胸が詰まる。
「来年も、こんな風に過ごせるといいな」
「だったら来年はツリーの一つでも飾るか。あいつらも皆呼んで、美鶴にうまーい飯作ってもらってよ、バカ騒ぎして」
 予言か希望か、どちらにしても二つ重なった白いスクリーンの中にそんな光景が見えそうで、肩を震わせて笑ってしまう。
「いいですね、それ。お肉いっぱい用意しなきゃ。ホイルで飾った唐揚げとかパーティーっぽいの」
「焼きそばパンもな」
「それは、クリスマスじゃなくても、先輩は食べてるじゃない」
 好きなもんはいつだっていいんだよ、って。
 子供にするようわしゃわしゃと頭を撫でられてるのに、先輩の口から出た好きという言葉に鼓動が跳ねる。
「アリアも! 呼んだら喜んでくれるかな」
 過剰な意識を誤魔化すかのようにアッと一息遮って、浮かんだアイディアを顔をめぐらせて得意げに披露すると、大きな目を優しく細めながらぽんぽんと頭を叩かれ褒められた。
「あのちびっこも、たまにゃお子様らしく騒ぐ必要あるもんな。……ユーゴも、それ見りゃ喜ぶだろ」
 ツヴァイとではなく、懐かしい旧友を呼ぶように言って先輩がからからと笑う。
 どうしてこの人はこんなに不器用に優しいんだろう。
 先輩本人は気がついていない懐の大きさに、胸だけじゃなく喉までつまってしまった。
「どうした?」
 首を横に振ると、ほんの一瞬遠くを見た先輩が夢の続きを口にしだす。
「大勢集まるなら鍋もいいよな。この俺様がいるから最高にうまい鍋を最高のタイミングで食べられるぜ。拓磨と狗谷はまだなんも分かっちゃいねぇんだよ、鍋は肉のみじゃねぇんだって。シメの雑炊までフルコースで考えてこそ鍋だっての」
 真弘先輩なら、みんなを仕切って立派な鍋奉行になれそう。
 普段、守護者をまとめているのは大蛇さんだけど、こういう大騒ぎには真弘先輩がよく似合う。
 きっと楽しいクリスマスになる。
「……そんでだ。他のやつらが帰ったら」
 ふっと笑みをおさめた先輩の、瞳の色に魅入られていると頭に添えられていた手が、ゆっくりと下りて髪を梳く。
「また、こうして過ごすか」
 将来を約束する白い呪文に、はい……という返事は吸い込まれて言葉にならなかった。
 代わりに、一つになった吐息だけが静かに静かに空へ昇っていった。

あとがき

真弘んと愉快な守護者たち、みたいな元気いっぱいガヤガヤ系も好きだけど
クリスマスはしっとりと。

うおっ、危ねっ!
いま、つい“しっぽり”って打ち込みそうになった。
一文字違うだけで大違いだよ。