……あいつ、だ。
姿を確認する前から足音の主が誰か、なんとなくわかってた。
お上品な生徒ばかりの祥慶のなかで、こんな歩き方すんのあいつくらいなもんだ。
音だけでも自己主張するように鳴るヒールを、心の中でカウントしてからゆっくりと廊下を曲がる。
案の定、体に軽い衝撃があって、足元にバサバサと何かが舞い落ちた。
「きゃ……あービックリ。九条くんか」
「そりゃこっちのセリフだ。なに走ってんだよ、騒々しいやつだな」
「へ? あぁ、ちょっと理事長に頼まれた事があって」
頼まれ事が散乱しているのを見下ろし、頭を抱えてうめくと、しゃがみこんで掻き集めはじめてる。
こいつマジで俺より年上なのかよ?
落ち着きねーし、童顔……っつーかガキくさい。
今も必死に紙の束を元にもどそうと慌てて寄せてはいるけど、どう見たって手元から逃げてく数の方が多い。
……ったく、何やってんだ。
「ほらよ」
原因は俺にもあるんだから手伝え、そう言われるより先に足元の数枚を拾い上げる。
片手を突っ込んだままなのは、不本意なことへの精一杯の意思表示だ。
「ありがと」
そんな事にすら気がつかない様子で笑いやがる。
「助かったよ、急いで持っていかなきゃいけなくて……あれ、それより九条くんはどうしたの? こんな時間に何してんのっ? 授業は」
「うっせーな今さら教師面すんじゃねぇよ。てめぇには関係ねーだろ」
「そうだけど、でもっ」
真正面から顔を見つめられて、ふいに軽い苛立ちが湧き上がった。
「自習」
「は?」
「自習になったんだよ、サボってた訳じゃねぇ」
なに言い訳してんだよ、俺は。
師から生徒になって、今は秘書やってるこいつに説明する義理なんかねぇのに。
「そうなんだー。ちゃんと学生してたんだね、良かった良かった」
「あ?」
「学校に通えるって幸せなんだよ。あ、もうこんな時間」
じゃあねーと暢気に手を振ってまた走り出す姿を見送り、反対方向に歩き出した。
幸せって何だそれ。
説教する癖は教師んときから変わってねぇ。
「うぜーヤツ」
顔を合わせるたびに、いちいち一言多いんだよ。
……えらそーに。
いくら元教師で年上だからってあいつにそんな権利あんのか?
「ちっ」
舌打ち一つでムカつく気持ちを振り払うと、いつの間にか早くなっていた歩きを元に戻した。
タバコと酒と香水の匂いが充満した店ん中に、大音量で鳴り響くリズム。
なじんだ場所のはずなのに、訳のわかんねぇ不快感に襲われてた。
……つまんねー。
ゲラゲラ盛り上がってる群れを、冷めた目で眺めながら深く椅子に沈み込む。
どいつもこいつも何が楽しいんだか。
下の名しか知らない関係で、その場限りの暇つぶしを繰り返してる毎日によく飽きねぇな。
ケータイ一つでしか繋がらない“仲間”。
どこの誰かなんて聞く方がルール違反な“仲間”。
その中に、ついこないだまで自分もいた事すら忘れて、毒づき続ける。
お手軽で自由で気ままな関係、か。
あの輪の中にいる何人かのオンナとは、それなりに楽しい時間を過ごしたこともあった。
ギブアンドテイクで、後腐れがないのが暗黙の了解になっている付き合い。
うるせぇ事は言わない、目の前にあるモノだけを求めるオンナ達。
たまらなく心地よく思えたのは過去になりつつある。
もう潮時ってやつなんだろう。
飽きたらそれまでの付き合いだ、未練なんかねぇ。
ふっと澱んでいた空気がゆれて、きつい香水の匂いがしたと感じた瞬間、背中に柔らかい固まりがぶつかった。
「リーーークッ」
背後から急に抱きついてきた腕を無言で振りほどく。
「ちょっとーテンション低いじゃん」
「うるせぇ、うせろ」
「やだ、怖ーい」
けたたましい笑い声をあげながら、勝手に隣に座り込んだ体を押しやると、さすがにムッとしたのか眉を寄せて覗き込んできた。
「最近のリク変。どうしたのよー」
虚ろな視線が顔の上を這っていく。
どうしたの、か。
同じセリフをあいつにも言われた。
真っ直ぐ向けられた視線は同じなのに、いま感じているのは不快感だけだ。
あいつの時は苛立っただけで……。
「みんなも言ってるよー? おかしいって」
おかしいのは、てめぇらだ。
「酒くせー顔、近づけんな……うせろ」
「はぁ? 心配してんのに何それ、ムカつく」
「あぁそうかよ、それはそれはご丁寧にどーも」
「あ、ちょっとドコ行くのよ」
どこだろうな?
わめく声を背にして立ち上がる。
行き先なんか知るか。
ただ一つ解ってるのは、ここにはもう顔出さないだろうって事だけだ。
さすがにシャツ一枚じゃキツイな。
店を出た瞬間にジャケットを忘れたと気がついたけど、戻って取りにいくよりそのままぶらぶらとあてもなく歩く方を選んだ。
ポケットに突っ込んだ拳を握り締める。
衝動的に後にした店から、もう一時間近くたっていた。
どこに向かうかなんて考えもしねぇで、歩き続けた足の裏がきしんだ音をたてている。
何台も隣を通り過ぎていったタクシーに手を上げて、カードをチラつかせれば何処へでも行けるのは解ってて、それでもそうしなかったのは自分でも何処に行きたいのか理解できてねぇからだ。
かといって家に戻るつもりは初めからなかった。
薄ら寒い“家族ごっこ”の待つ家に行って何になる。
難癖つけられて説教されて、互いにウンザリする時間が待ってるのが解ってんのによ。
また襲ってきた苛立ちを振り払うように顔をあげると、枯れた木々の間からぽつりと雫が降ってきた。
顔に当たる雫が重みと速度を増していく。
バケツをひっくり返したような雨に打たれて、止められなかった足が勝手に固まった。
……バケツ。
浮かんだ記憶に唇がゆがんだ。
そういえば飲み干した馬鹿がいたな。
まわりがざわめいてるのも気がついてねぇ様子で、挑戦的な顔で俺にガン付けやがったヤツ。
あん時だけじゃねぇ、あいつはいつも遠慮なく真っ直ぐ俺を見やがる。
逸らし続けるお坊ちゃま達の分も、寄せ集めましたってな眼をしやがって。
「……くそっ」
閉じた瞼の奥に浮かぶ、あの眼に意識を奪われる。
何であいつの事を考えなきゃいけねぇんだ。
こんなにイラつくのは雨を吸い込んで肌に張り付いてるからだ、ぜってぇに。
それ以外の理由があってたまるか。
信号が点滅している交差点を見渡す。
なんとなく選んだ、どこに繋がってるのか知らねぇ道をまた歩き出した。
同じような家が立ち並ぶ路地は、漏れる灯りがぼんやりと照らしているせいで、足もとに集中しなくてもすむ。
降り続ける雨を踏む音だけ意識しながら進む耳に、別の音が混じったのは歩き出して五分と経たないあたりだった。
水を跳ね上げながら小走りで近づいて来る。
ふっと脳裏に浮かんだのは……あいつ、だ。
「まさかな」
間を計りながらゆっくりとカウントして身構える。
数メートル先で止まった足音に、ゆっくり顔をあげると相手も俺を見ていた。
「……九条くんっ!?」
見開かれた目に街灯の光が反射している。
そん中に、俺がいた。
「すぐに暖まると思うから、それまでちゃんと拭いてて」
問答無用で引きずり込まれた家の中に、ほこり臭い風が吹きはじめている。
少し首をめぐらすだけで一望できるリビングで、手渡されたタオルを被りながら“何かおかしい”という気持ちと戦っていた。
ごく普通の家のはずなのに、全体に漂う違和感はなんなんだよ。
さっきまで時間が止まっていたようだ。
バタバタとスリッパを鳴らしながら、どこかに消えていく姿に思わず問いかける。
「ここっておまえん家かよ?」
廊下の向こうから“そうだよー”と返ってきた大声に眉をひそめた。
人気のない自宅に、軽々しくオトコを入れるやつには思えなかったのに、わかんねぇもんだな。
元教師の癖でただの生徒としか思ってねぇってことか?
……なめられたもんだぜ。
十分に水を吸ったタオルを放り投げると、エアコンから吐き出される風があたるソファーに座り込んだ。
さっきよりは弱まったもののまだほこり臭さが残る風に、暖められるよりも先に濡れたシャツがますます体温を奪っていく。
急に足音が戻ってきたかと思うと、ずいと目の前に服を突き出された。
「んだよ」
「そのまんまじゃ風邪ひくでしょ。お父さんのだけど、濡れたのよりはマシだと思って」
「いらねー」
「震えながらなに強がってんの?」
呆れた顔が“ほら”とさらに服を押し付ける。
「さっさと着替えて。こういう時くらい人の好意は素直に受け取るものよ」
「…………チッ」
「サイズは大体おなじだと思うから」
ひったくるように受け取ったのを見てふと笑うと、またバタバタと動き出してる。
こいつは一箇所に大人しくしてるって事できねーのかよ。
「着替えたら脱いだ服かしてね? アイロンかければすぐに乾くから」
おそらくはキッチンの方角から、ガチャガチャいう食器の音と大声が飛んできた。
返事は必要ないと言いたげに、足音が反対に消えていく。
おせっかい。
普通バッタリ会っただけの人間にここまでするか?
ほっとけっつったのに“すぐ近くだから”、“そのまま帰したらあたしが気になって仕方ない”なんて理屈こねて、引きずるように連れて来られた結果がこれだ。
親父のものというシャツを広げると、折りたたまれていた跡が二つの線がのびている。
まるで長いことしまい込まれていたような服に、また違和感が浮かんでくる。
生活感がない部屋の中といい、なにかおかしい。
こいつんちもめったに人が帰って来ないのか?
似たもの同士だと思われて、同情でもされてるって訳かよ。
冗談じゃねぇ。
同情なんか真っ平だ。
まだ無関心の方がマシだっつーの。
苛立ちに甲高い音が割り込んで、さらに増幅させられる。
あいつが消えたままのキッチンから、湯が沸いたことを知らせる音が鳴り響いていた。
こんだけうるせぇのに戻ってくる気配すらない。
舌打ちをしてシャツを脇に放ると、薄暗い廊下に顔を出した。
奥の部屋からわずかな光が漏れてるから、あそこにいんだろう。
そこまで音は届いているはずなのに、バタバタ走ってくる様子もなけりゃ物音一つすらない。
ったく何やってんだよ。
さっさと戻ってきて俺を解放しろと、うぜーおせっかいはこれきりにしろと言うつもりで、光が漏れるドアにかけた手が固まった。
いくつか飾られた写真立ての真ん中が空いている。
大事そうに胸に抱えているのが、そこにあるべき物なんだろう。
目を閉じた横顔で、その意味が一瞬でわかった。
違和感の正体は、これか。
この家はどこか時間がとまっていると感じたのは、間違いじゃなかったんだな。
だから余計にあいつが動くのが強調されてた、っつー事か。
……じゃあ、さっきのシャツは……。
寒気とは違う震えが背をつたった。
どうせ何も聞こえてないと解ってんのに、足音を消して元の場所に戻る。
中身がないシャツを取り上げてまじまじと眺めた。
俺にとっちゃただの布だけど、あいつにしたら……。
んな大事なもんを出してきてまで、おせっかいにも程度っつーものがあるだろうが。
ただの布……が、急に重く感じた。
「うわっ、沸いてた! 教えてくれてもいいじゃ……あっ、まだ着替えてない」
「……着れるか」
「ちゃんと洗濯してあるのに」
そういう問題じゃねぇ。
「あたし忘れ物とったらすぐに戻……行かなきゃいけないとこあるから早くしてよね」
騒々しい音がやんだと思ったら、テーブルにマグが置かれた。
「インスタントで悪いけど、少しはあったかくなるでしょ」
「別に。俺は祥慶のほかのやつらと違ってお上品な舌してねーから」
「九条くんって、いっつも一言多いよね」
「うるせーな、そういうてめぇこそ一言どころか」
「牛乳があればホットミルクにしたんだけどさ。カルシウム取った方がいいよ?」
やっぱり一言どころか余計に多いじゃねーか。
それでも湧き上がるはずの苛立ちが襲ってこない。
「あたし取ってくる物あるから、それまでに着替えててよ、いいっ?」
振り返りながら独り言のように言葉が続けられる。
「濡れたまんまなんて、絶対に良くないんだから」
てめぇも急などしゃ降りにやられたまま、髪すら乾いてねーのに。
「急いでアイロンかけて、そしたらお家の人に連絡して……」
苛立ちに変わって“うち”という単語に、複雑な感情が襲ってきた。
マグを手にするとノドが焼けそうなコーヒーを一気に飲み干した。
「……んだ、これ? まじぃ」
「だからインスタントって言ったでしょ」
「……次はもっとマシなもん飲ませろよ?」
「次? ……あ、ちょっとどこ行くの」
「帰る」
「まだ服っ……九条くん!?」
追ってきた足音に玄関で振り向くと、真っ直ぐ見ている目に視線を合わす。
「悪かったな」
「それってお礼のつもり? だったら“ありがとう”じゃないの?」
「馬鹿か、おまえ」
ありがとう、だなんて言うかっつーの。
「ねぇ帰るって」
「家に帰るっつってんだよ、うるせーな」
濡れた靴に足をつっ込むと、奇妙な音と嫌な感触がした。
ドアを開くといつの間にか止んだ雨のかわりに、月明かりが道を照らしている。
「それならいいけど……」
向けられたままの視線に、その明かりを受けて浮かぶ俺が映っている。
「明日も学校あるんだから、ね」
「元教師がいちいち口出さなくても行くっつの。じゃーな」
教師、後輩、秘書……俺の前に現れるたびに違う顔を見せるやつの、また別の顔を知っちまったからな。
こんだけ興味をそそられるやつ、見逃す手はねぇだろうがよ。
そんだけでも祥慶に顔を出す価値があるってもんだ。
踏み出すたびに水溜りと濡れた靴が同じ音をたてる。
いま帰ったら間違いなく説教されるだろうけど、まぁ、おとなしく家族とやらの顔を拝みに行くか。
そう思ったのは別にあいつに影響されてって訳じゃねぇ。
言い訳くさい気持ちを押し込めて、向かってくるタクシーに手をあげた。
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