カミの手の平


「あれ?」
 慎司が弁当から顔をあげて呟いたのと同時に、俺の耳も異変を捉えていた。
「あの足音……珠紀先輩、ですよね」
「だろうなぁ。まさか真弘先輩のわけないだろ」
 慎司が首を傾げるのも無理もない。
 去年まで、こんな足音をたてて屋上にやってくるのは、真弘先輩と相場が決まっていたのだ。
 それも決まって、無理難題と一緒に、だ。
 当時ははた迷惑としか感じなかったけれど、今は少しの懐かしさを感じながら近づいてくる足音に耳を澄ませる。
 あと5秒……3、2……。
「拓磨っ!!」
 カウントダウンをかき消す勢いでドアが叩きつけられたと思ったら、先輩の性格まで乗り移ったのか、到底無視できない大きさで名を呼ばれた。
「んだよ、うるせぇなぁ。おまえはあれか、真弘先輩の後継者かなんかか」
 俺の言葉をさらりと聞き流して、荒い息を整えながら辺りを見渡した珠紀はほっとした顔になった。
「やっぱりここに居た! 慎司くんも居たのね。ちょうどよかった、あのね、大切な話があるの」
 大切な、という響きにおもわず慎司と顔を見合わせる。
 すぐに慎司は箸を置き、俺はパズル雑誌を閉じた。
 俺たちが話を聴く体勢になったのを確認して、珠紀が神妙に一つ頷く。
「遼は……しかたない、後で探すとして。まずは……二人とも、いい?」
「え、えぇ。どうしたんですか、珠紀先輩? まさかまた何か……!」
 とっさに気色ばむ慎司に、俺の気も自然と引き締まる。
 鏡が引き起こした騒動は収まったとはいえ、まだ十分に記憶が癒えたわけじゃない。
 苦しい思いもした、辛い出来事もあった、それからやっと日常に戻りつつある。
 慎司が心配するのも当然だ。
 瞬間的にしんとした屋上を、夏の名残をはらんだ風が通り過ぎ、暴れる髪先を押さえつけようともしない珠紀がゆっくりと口を開いていくのを、固唾を呑んで見守る。
「あのね……」
 視線を落として言いよどむ姿に、言い表せない不安が胸の中を覆っていく。
 鏡は大きな犠牲を払って完璧に封じられた。
 カミたちが騒ぐ気配もない。
 珠紀も前みたいな笑顔を見せるようになっていたし、放課後は玉依姫の修行だと前にも増して大蛇さんとこに通っているようだ。
 こんなに嫌な予感がする要素なんて、どこにも見当たらないはず、だ。
 うん? ……大蛇、さん?
「その」
「珠紀先輩……そんな顔をするなんて、やっぱりなにか大変な事態が」
「ち、違うの。あのね、話っていうのは、その……今日って大蛇さんの誕生日じゃない? だから、みんなでお祝いしたらどうかなーって」
「はぁ」
 慎司が気の抜けた返事をするのに隠れて、ため息をついた。
 嫌な予感ってのは当たっていたけど、まさか珠紀がそんなことを言い出すとは思ってもいなかった。
 誕生日っていったら、その……いわゆる恋人同士の一大イベントだ。
 当然、今日は二人っきりで過ごすものだと思ってた。
 鏡の騒動の間、気がついたときにはもう大蛇さんと珠紀の距離が近くなっていて、いつの間にやら付き合いだしていて……その話を聴いたときの、他の守護者の唖然とした表情を思い出す。
 納得がいかないと思いっきり態度に出した狗谷や、話を聴いて腰を抜かさんばかりに驚いていた真弘先輩、祐一先輩……は寝てるのか呆然としてるのか分からなかったけど。
 俺だって驚いたし、……割り切れない感情を未だに持て余している。
 もっと不幸なのは慎司だ。
 珠紀が大蛇さんのところに通う事が多くなってから、美鶴の八つ当たり相手に任命されて相当派手にやられているらしい。
 盛大にため息をついたのも無理もない。
 その様子を見咎めて、勘違いしたのか珠紀がムッとした顔になった。
「なぁに? 二人とも、その態度」
「え、いえっ、別に」
「おまえが一大事って顔で飛び込んでくるからだろ、ったく。大蛇さんの誕生日を祝いたいなら、おまえ一人で勝手にすればいいだろうが」
「普段あんなにお世話になってるのに。拓磨ったら、そんなに薄情だなんて思わなかった」
 ……薄情、ねぇ。
 どっちがと言いたい気持ちをぐっと堪え、再びパズル雑誌を開いて不参加の意思を強く表した。
「あの人が、俺たちに祝われて喜ぶかよ。なぁ慎司?」
「は、はい……僕も命が惜しいですし」
 珠紀までは届かなかっただろう慎司の小さな呟きに、うんうんと首を縦に振る。
 俺たちがついていったら黒いオーラを背負った笑顔で、まずチクリと言われそうだ。
 その笑顔の裏で、えげつない事を考えているのは間違いない。
 あの人も、あれでいて結構ガキっぽいとこがあるっていうか、独占欲があからさますぎっつうか……。
 気がついていないのは、珠紀本人くらいなものだ。
「みんなで盛大に祝ったほうが楽しいかと思ったのに」
「とにかく、俺はパス」
「僕も、です」
「でも……」
 まだぶつぶつと言う珠紀に、呆れ混じりの視線を向けながら、大事なことを思い出させるよう噛み締めて言った。
「おまえと大蛇さんは、付き合ってるんだろ。だったら、俺たちなんか抜きで祝った方がいいに決まってるだろ」
「そうですよ!」
 僕たちの命のためにも。
 慎司の眼がそう言っている気すらする。
「それはそうだけど、その」
「いーや、そうに決まってる。それともなんか問題あんのか」
「問題っていうか……」
 制服の上着をそわそわといじりながら顔を紅くする珠紀は、まさに恋する乙女ってやつか。
 村に来たばかりの頃は、こんな表情をすることなんてなかったのによ。
 今だって、このハニカミは俺と慎司に向けてじゃない。
 大蛇さんのことを考えてるからだ。
 素直に可愛いと思ってしまう仕草を、居もしないところでさえ独占している大蛇さんに、苦い気持ちを抱いてしまう。
 慎司も複雑な笑みを浮かべて、視線を彷徨わせている。
 分かる、ものすごぉーく分かるぞ、慎司。
 こっちの意思は伝えたんだ、とっとと拷問紛いのこの空気から解放してくれ。
 そんな気分で、解く気が失せたパズル雑誌を持って立ち上がるのと。
「だって、すぐ……大蛇さんってば、この前、遊びに行ったときに“次は泊まっていきますか?”なんて、言うんだもん」
 珠紀がそれと知らず爆弾を落としたのは同時、だった。
「んなっ!」
「ええっ!」
「冗談だってわかってるよ!? でもっ、一人で行ったら期待してるって思われそうだし」
 いや、それは確実に冗談なんかじゃ……。
「意識しちゃって……二人っきりなんて、無理だよ」
「そ、そうか」
「だから、みんなが居てくれれば……って。騙すような真似してゴメン。気にしな……」
 大蛇さんの黒い笑顔と、珠紀の貞操の危機。
 心の中の天秤が、考えなくとも大きく振り切れた。
「そ、そういうことなら? ほかならぬ我らが玉依姫の頼みだ、快く協力しようじゃないか! なぁ慎司」
「え、えぇ! 僕、腕によりをかけて、一晩かかっても食べきれないほどの料理を作りますよ!」
「祐一先輩はさすがに無理だろうけどなぁ、真弘先輩たちも、誘わなくちゃなぁ」
「ですよねっ、みーんなでお祝いする方が、やっぱりいいですよ!」
「だよなぁ、ははははは」
「あはは、はは」
 突然の流れにきょとんとしていた珠紀も、やっと飲み込めたのか少し頬を緩ませた。
「ありがとう。やっぱり守護者のみんなって仲が良いよね。じゃあ放課後、一度、宇賀谷家に集合ね」
「おぅ」
「はいっ」
 狗谷も探し出して伝えなくちゃと、来た時と同じ勢いでスカートを翻し去っていく背中に、ふたつのため息が被さった。
「……珠紀先輩、ときどき残酷ですよね」
「ありゃあ無自覚だからな。無自覚なのが一番タチ悪いってなんかで読んだぜ」
「僕たち、明日も無事に学校へ来れるでしょうか」
「嫌なこと言うなよ、慎司」
「でも……」
 大蛇さんを敵に回すのを覚悟の上で誘いに乗ったんだ、今夜、繰り広げられるだろう静かな修羅場に腹を括るしかない。
 あの足音に意識を向けたとき、イヤでも巻き込まれる羽目になるって、なんとなく感じた予感は当たってた。
 やっぱりあいつは真弘先輩を引き継いだんだ。
 無理難題を問答無用で押し付けるあたりとか。
 俺は、イヤイヤ言いながらも逆らえないとことか。
 まぁ真弘先輩と違って、あいつはかわいい、けど。
 こういう気持ちを抱いている限り、損な役回りからは逃れられない……か。
 つい浮かんだ自嘲めいた笑みを打ち消すよう、雑誌を丸めて首筋をとんとんと叩く。
 慎司はといえば、食欲がなくなったのか、静かに弁当を包みなおしだした。

 
「僕、九月が嫌いになりそうです」
「同感だ」


 吹き抜けた風が冷たく感じたのは、足早にやってきている秋の気配のせいだけじゃないのを、二人ともよく分かっていた。

あとがき

鴉さんが好きです。鬼さんも好きです。
でも蛇さんの方が、もーーーっと好きでっす。
大人気ない大人状態の大蛇さんが、とっても好物です。
緋色の策士っぷりもイイのですが、蒼黒での映し鏡含めた大蛇さんは、あたしというピンをストライクでなぎ倒していきました。

なーんて事を、ブログにアップしたとき書いたらば。
まさかネタにしたCMの引越し屋さんが、その後、民事再生法の申請をするなんて……。